昨日(2月13日)、所属するアマチュアオーケストラの演奏会がありました。
当日配布のプログラムのために書いた曲目解説をアップします。
なお、「駄文」というカテゴリーは、もちろんこのブログが駄文の山ではあるのですが、何かのために書いた文章ということで使用。
「第8番」は「グレート」のほうです。
シューベルト:交響曲第8番ハ長調 D.944(D.=ドイチュ番号)(「ザ・グレイト」)
作曲:1825-26年(~1828年とする説もある)
初演:1839年3月21日、メンデルスゾーン指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による
シューベルトについては貧困、借金に苦しんだ作曲家というイメージを持っている向きも少なくないと思われるが、最近の研究では歌曲については演奏、出版がそれなりの収入をもたらし、借金に苦しんでいたのは友人たちとの浪費によるようである。しかし、交響曲というジャンルについては、演奏、出版に相応の費用がかかることから初期の交響曲の一部の試演を除くと生前に演奏、出版されることはなかった。また、経済的理由だけではなく、交響曲作家の先達としてはベートーヴェンという偉大な存在がすぐそばにあり、その後に交響曲を書くということはその意味自体を問い直す作業でもあった。試行錯誤の結果、現在、演奏可能な形態として存在する8曲の交響曲の他に5曲のスケッチが残されている。
交響曲の作曲家として手法、内容ともに大きな発展をみせるのが、1822年に作曲を開始した「未完成交響曲」として知られる未完成のロ短調の交響曲(新全集では「第7番」)であるが、1823年4月にはシュタイアーマルク(州都グラーツ)の音楽協会に名誉会員として推薦された返礼として未完成のまま贈呈され、推薦に尽力した作曲家ヒュッテンブレンナーの手に渡ったまま完成されることはなかった(推薦に対する返礼ではなく、ヒュッテンブレンナー兄弟に対する尽力へのお礼としての贈呈の説もあり)。
シューベルトは1823年頃から梅毒に起因するとみられる体調不良を来すが、1825年体調がやや回復したシューベルトは5月から10月にかけて、友人フォーグルと上オーストリア(シュタイアー、グムンデン、リンツ、ザルツブルク、バード・ガスタイン)を旅行した。その様子について、1825年7月にリンツのオッテンヴァルトは「(シューベルトは)グムンデンで交響曲を1曲作り、これは冬にウィーンで演奏されるはずです」とシューベルトの友人シュパウンに書き送っている。この手紙で言及されている交響曲は、1825年10月にウィーン楽友協会へ補欠理事に選任されたことに対する返礼として提出され(演奏はされていない)、シューベルトが100フロリーンの奨励金を得ることとなった交響曲を指しており、従来は、後に消失したと考えられており、作曲した土地の名を取り「グムンデン・ガスタイン交響曲」と呼ばれてきた。その後、シューベルトは彼が亡くなる1828年の春から夏にかけニ長調の交響曲の構想を練るが、断片だけ残して、11月19日世を去る。
ここまで読んで「"グレート"はどこに出てくるのか」と思われた方、「"グレート"って交響曲第9番じゃなかったの」と思われた方もいらっしゃるだろうが、シューベルトという作曲家については解明されていないことも多く、近年の研究成果を踏まえるとこの曲の生い立ちは次のとおりとなる。
このハ長調の大交響曲については、従来は自筆譜に書かれた日付からシューベルトが亡くなった1928年の3月に作曲に着手されたと考えられていた。ところが、近年の研究でシューベルトが使用した五線紙が1825年ころに使用したものであること、また従来自筆譜の日付が「1828年3月」とされていたのは「1825年」の読み誤りとする説が有力になっている。その結果、所在不明と考えられていた前出の「グムンデン・ガスタイン交響曲」こそがこの「グレート」であるとする説が有力になっている。つまり、健康に蔭りはあったものの作曲家としての野心は満々であった、少なくともこれが最後の交響曲となることは考えていなかった時期の作品である。シューベルトは7年ぶりに完成することのできたこの交響曲に自信を持っていたが、演奏されないまま兄フェルディナンドのもとに楽譜は残されており、1838年、作曲家シューマンがフェルディナントを訪ねこの曲を発見し、翌1839年に指揮者としても高名であった作曲家メンデルスゾーンの指揮により初演された。これは、公開演奏されたものとしては交響曲第6番(ハ長調D.589)に次ぐものとなる(「グレート」という通称は、第6番もハ長調であるため、それと区別するため「大きい方」という意味である)。
第1番から第6番までのシューベルトの交響曲は佳作ではあるが、曲の構成、規模においては、モーツァルトの影響下にあるものだったが、「未完成」、「グレート」では曲の構成、規模が大きくなり、歌謡性、転調の妙を活かしたシューベルト独自の世界へ踏み込み、ロマン派の入り口となる作品となった(「未完成」も第4楽章まで完成していれば、「グレート」程度の長さになっていたと思われる)。楽器の用法で特徴を1つだけ挙げておくと、トロンボーンの使用がある。トロンボーンは天使の声の象徴としての意味合いを持っており、それまで宗教音楽以外では日常的に使われず、ベートーヴェンの交響曲でも限定的にしか登場していなかった。それが「未完成」以降のシューベルトの交響曲では常時登場する楽器となった。
この作品を発見したシューマンは感動し、批評家としても精力的に活動していた彼は、自ら主宰する「音楽新報」に次のとおり書いた。
「この中には堂々たる作曲技術以外に、多種多様多彩を極めた生命が微妙な段階に至るまでに表れている上に、至るところに深い意義があり、一音一音が鋭利を極めた表現を持ち、そうして最後に全曲の上には今まですべてのフランツ・シューベルトの曲によってなじみが深いロマン性がまきちらされている。その上この交響曲は、ジャン・パウルの4巻の大部の小説に劣らず、天国のように長い。これら両者がどちらも決して終わらないことについては、誠にもっともな理由があるので、2つとも読者に、その先を心ゆくばかり考えさすものだから、どうしても終わることができないのである。」
この「天国的な長さ」という言葉は有名となるとともに、前後の文脈と切り離され一人歩きをする。以前はこの曲が作られたのが死の年と考えられていたことからの連想か、「天国」について死の予感、遺作というイメージを持つ向きもあるようだ。だが、シューマンは、聴き手に幸福をもたらし、終わってほしくないと思うほどだということを表すために「天国」という言葉を使ったことは注意する必要があろう。なお、初演においては長すぎると判断されたためか、大幅にカットされて演奏され、全曲が広く知られるようになったのは19世紀後半になってからである。
また、シューベルトがベートーヴェンの交響曲に刺激を受けて交響曲の作曲に励んだのと同様に、またこの作品も19世紀の作曲家に刺激を与えることとなった。例えば、第1楽章の冒頭でホルン2本がテーマを奏するが、初演に関わったシューマン、メンデルスゾーンとも、前者は交響曲第1番(「春」、1841年作曲)、後者は交響曲第2番(「賛歌」、1840年作曲)でそれぞれ同様に金管楽器がテーマを宣言する。さらに後になれば、チャイコフスキーの交響曲第4番(作曲1877-78年)の第1楽章の冒頭も、同様の例として挙げることもできるだろう。
なお、シューベルトの体系的全集としてはブラームスなどの校訂による(旧)シューベルト全集があったが(刊行1884-97年)が、校訂者の「加筆」、矛盾などの問題もあり、1967年よりベーレンライター社から新全集が刊行されており、現在も継続中である。本日の演奏はこの新全集の楽譜を使用する。また、作品目録についても1978年に見直しが行われ、交響曲については、演奏可能な状態にあるものだけをカウントすることとなり、本日のプログラムも「第8番」である。