昨日(6月27日)をもって,6月中のブルックナーの交響曲本番2回はおしまい。
基本的には所属オーケストラでの活動そのものについては書かないことにしているので触れないが(注)、1月の間に高関健氏、キンボー・イシイ=エトー氏と指向性の違う指揮者でブルックナーの交響曲を演奏できたことは貴重な体験であったと思う。
(注)単に「あいつ弾けないくせにあんなこと書いて・・・」と言われたらどうしよう、ということです。
それぞれの演奏に対する自分の好みの違いは当然あるが、どちらの演奏もコンセプトがはっきりしており、その点ではやりやすかったし、指揮者のアイディアの豊富さにも感銘を受けた。
ふだんのホームグラウンドのオーケストラのほうではプログラムに使うブルックナー交響曲第9番について書いた駄文があるので、記録のために載せておく。
ちなみにその筋では有名な「特定顧客」な方(かなりの婉曲表現)が、「なぜブルックナーは第4楽章をやらないのか、主催者を呼べ」といっていたらしい。
ブルックナー交響曲第9番 ニ短調 WAB.109
ブルックナーは作曲家生活の中で成功に恵まれなかったが、1884年12月30日、ライプツィヒにおける交響曲第7番の初演(アルトゥール・ニキシュ指揮)、および翌1985年3月10日のミュンヘンにおける同曲の再演(ヘルマン・レヴィ指揮)により初めて大成功を経験する。
自信をつけたブルックナーは1884年10月1日から1887年9月4日にかけて交響曲第8番を書き上げ、自信をもって、9月19日、交響曲第7番の2回目の指揮を行った指揮者ヘルマン・レヴィに送り、また同8月12日には交響曲第9番の作曲にとりかかった。
ところが、レヴィは自信作であった交響曲第8番に対し否定的な意見を述べ演奏を拒絶し、これによりブルックナーは一時は神経衰弱が再発するほど自信を喪失し、交響曲第3番(1889年稿(第3稿))、同第1番(1891年稿(第2稿))、交響曲第4番(1888年稿、注1)、交響曲第8番(1890年稿(第2稿))の改訂をそれぞれ行い、その間、交響曲第9番の作曲は中断されることとなる。
ブルックナーが次に交響曲第9番の作曲の作業を行ったのは1889年1月4日で(ブルックナーは祈祷の回数まで書く記録マニアだったので、作業の日付が克明に記録されている)、本格的に作曲を再開したのは1891年に入ってからで、並行して書いていた「ヘルゴラント」などの作曲を終え交響曲第9番のみに専念できるようになるのは1893年夏になってからである。第1楽章は1892年10月14日、第2楽章は1893年2月27日にいったん完成し、それぞれ1893年12月23日、1894年2月23日に加筆作業を終える(なお、第2楽章のトリオは当初ヴィオラ独奏が活躍する形態が考えられており、2種作られたが破棄されている)。また第3楽章は1893年1月に作曲作業が開始され、1894年11月30日、完成する。
他方、名声の高まりと反比例するように、1890年代初頭からブルックナーの健康は悪化をたどり、第3楽章の作曲は思うように進まなかった。自分の死の可能性について考えるようになったブルックナーは、1893年11月には遺言書を作成し、1894年11月12日にはウィーン大学の講義でこう述べている。
「私の交響曲第9番の3つの楽章ができました。(中略)私はこの交響曲に随分力を注ぎ込みました。自分の年齢と病気のことを考えればそんなにがんばるべきではなかったかもしれません。アダージョは(中略)私が書いた一番美しい緩徐楽章です。私はこれを弾くたびに、心を深く捉えられます。私がこの曲の完成の前に死ぬようなことがあったら、『テ・デウム(注2)』をこの曲の第4楽章に使ってほしいと思います。」
これがブルックナーのウィーン大学での最後の講義となり、1894年12月に肋膜炎を患い、一時は死も覚悟される。1895年5月24日に第4楽章の作曲に着手するものの、水腫が悪化し自力では自宅の階段の昇降が困難となり、1895年7月にはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世のはからいでウィーンのベルヴェデーレ宮殿の一隅に住居を与えられ、残る生命力を振り絞り第4楽章の作曲に取り組む。そして、1896年10月11日、この日も午前中は作曲を行っていたが、午後、急激に病状が悪化し、ブルックナーは72歳の生涯を閉じる。
ブルックナーの作曲は、まず全体の小節数の設定、和声の進行など全体の基本構造を設計し、それから各パートの実際の音符を書いていくという手法で行われており、残された第4楽章についても1896年5月までに提示部がスコアとして残され、中間部のフーガの部分、さらにコーダのスケッチまで作業を終え、6月にはスコアの最終章まで弦楽器の音符を置き、さらに全体構造の修正を行った模様であり、断片も含めると500小節余りが確認されている。ブルックナーは完成した第1~3楽章ですでに頻出する不協和音、斬新な和声進行と20世紀音楽を予感させる世界に踏み込んでいるが、第4楽章が完成していればブルックナーとしては最大規模となる、前人未到の世界がつくられるはずであった。
第1~3楽章の初演が「第3楽章までに音楽的に完成している」という言説とともに行われたこと、ブラームスの交響曲第3番、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」、マーラーの交響曲「大地の歌」、第9番などで聴衆が静かに終わる交響曲に違和感を持たなくなっていること、また、ブルックナーが考えた「テ・デウム」を第4楽章の代わりとする演奏は調性の問題(ホ長調の第3楽章の後にハ長調の「テ・デウム」を演奏するのは違和感がある)などから、今日、この交響曲は第1~3楽章のユニットが完成した作品のように扱われている。しかし、シューベルトの交響曲第7番(「未完成」)のように作曲が中断されてしまった訳でもなく、行き詰まって放置された訳でもなく、ブルックナーがあと数ヶ月生きていれば完成されていたであろうこと、完成すれば20世紀音楽の入り口となった作品だったかもしれないことは、心に留めておくべきだろう。
この交響曲の第1~3楽章の初演は1903年2月11日にフェルディナント・レーヴェの指揮によって行われたが、ブルックナーの他の交響曲と同様、聴衆に親しまれるようにしようというブルックナーの崇拝者たちの「善意」により、オリジナルのオーケストレーションから大幅に改竄された形で演奏、出版された。1927年に設立されたブルックナー協会は、最重要課題としてブルックナーが意図した本来の姿での全集刊行を挙げ、交響曲の第一弾としてアルフレッド・オーレル校訂による交響曲第9番が1932年改竄譜との比較演奏として演奏され、1934年出版された。この第1次全集プロジェクトの後、第2次世界大戦後の1951年第2次全集プロジェクトが開始され、交響曲第9番はレオポルト・ノーヴァクの校訂により1951年刊行される(オーレル校訂の楽譜の微修正)。また、その後発見された資料などを踏まえ、2000年にベンジャミン=グンナー・コールズの校訂により新版の楽譜が出版され、本日はノーヴァク、コールズ校訂の楽譜をもとに演奏する。なお、未完成の第4楽章についても演奏可能なよう補筆完成する試みが、複数行われている。
第1楽章 荘重に、神秘的に
ブルックナーの特徴である3つの主題を持つソナタ形式であるが、展開部、再現部は定石から大きく離れた独自のており、ここにもブルックナーの交響曲作家としての成熟をみることができる。
第2楽章 スケルツォ.動きを持って、生き生きと;トリオ.速く
ブルックナーのこれまでの交響曲ではスケルツォ、トリオは親しみやすい楽想を持ち、また素朴な民謡風の楽想であることが多かったが、この楽章は不安な楽想が支配し、また野生的、原始的性格を持っており、狂喜乱舞するような叩き付ける不協和音の連打も頻出する。
第3楽章 アダージョ.ゆっくりと厳かに
この楽章はホ長調であるが、ブルックナーは「聖なるもの」を表すときは十字架との連想でシャープ系の調性を用いることが多かった。また、曲が始まって最初の頂点でトランペットが反復するラッパ信号風の音形はワグナーの「パルジファル」、メンデルスゾーンの交響曲第5番「宗教改革」などでもみられる「救済」の象徴とみることもできる。その後、ホルンとワグナー・チューバで奏されるコラール風の楽句はブルックナーが「この世からの別れ」と呼んだと伝えられている。曲の最大のクライマックスでは強烈な不協和音が使われ、交響曲第8番の第3楽章、交響曲第7番冒頭の主題を回想し、静かに曲が終わる。
(注)
[1]1888年稿、従来他者の意見の言いなりのまま改訂を行ったとされ、「改訂(改竄)版」と呼ばれていたが、近年ブルックナー自身が積極的に改訂に関わったことが明らかになり、作曲家本人による改訂を編纂した楽譜が出版されている。)
[2]1881~1884年作曲、1886年初演の独唱、混声合唱、オーケストラによる宗教曲。なお、交響曲第9番の第3楽章にもこの曲の引用とみられる楽句がある。