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ベルリン・フィル定期演奏会(9/23)

ベルリン・フィルの演奏会にもう1回。

シェーンベルク:管弦楽のための変奏曲
ラヴェル:シェーラザード
R.シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」

マグダレーナ・コジェナ(sop.)
サイモン・ラトル指揮、ベルリン・フィル

コンサートマスターはGuy Braunsteinという人なのだろうか(自信なし)。コンサートマスターのサイドにはこの間も今回も安永徹さんが座っている。

この日のプログラムで一番楽しめたのはシェーンベルクで、変奏ごとのキャラクターの違い、同じ音形、旋律の楽器との受け渡しの妙が上手く出ていた。この曲が一番拍手が少なかったが、そんなもんなのだろう。

ラヴェルについては語れるほど曲の知識がなくて、子まで成したコジェナとラトルの競演か、という週刊誌的興味が勝ったまま聴いており、3曲終わった後の表情がなんとなくエロかった。あと、コジェナの歌うときにおでこに横じわでけでなく、時おり縦じわもでき、ワッフル状態だとつまらないことを考えてしまったりとか。ちなみに「死者の歌」のときマッティラは直立のまま歌っていたが、コジェナはオペラのように手振りをつけながら歌っていた。

不思議なプログラムの最後は、「英雄の生涯」であるが、日本のクラヲタの多くはこの曲といえばカラヤン&ベルリン・フィル、と刷り込まれているのだろうが、ラトルもカラヤンの存在を意識しないわけにはいかないだろう。
「英雄の生涯」は来る来日公演にも曲目になっていて、それにあわせるようレコーディングもされる。(前半2曲を実演で聴くのは初めてといっても不思議はないが、後半の曲は弾いたことがあるのにプロの演奏家による演奏で聴くのが初めてだったりする自分がちょっと情けない。)

自分的にはラトルがこの曲を取り上げるのに違和感があるのだが、EMIのサイトには、

「英雄の生涯」は管弦楽に新たな息吹を吹き込んだ壮大な作品で、R・シュトラウス流の皮肉に満ちた楽曲です。自分を“英雄”と呼ぶ作曲家には、皮肉屋が多いものです。私にとって意外だったのは、作曲家と批評家の間のくだらない論争の中で見せた当時まだ30代だった彼の自分に対する考え方です。彼は自分の晩年を想像し、自身に対する疑念や死への恐れ、老後の安らぎのことまで考えていました。これは私を驚かせ、心を動かすに十分だったのです。

というラトルのことばが載っており、こういうことを意図しているらしい。だが、大きい音でベルリン・フィルの妙技が聴けて満足というお客も少なくないだろう。

演奏自体は細かいことを言うと、アンサンブルがずれたかという箇所もあったり、コンサートマスターがソロを弾くのに足でリズム取ったりしてて、苦笑してしまったところもあったが、「英雄の引退と完成」のところはさすがだと思わせる演奏であった。

さて、次にここで聴く機会はあるのか。あと、もう1日いれれば、シュターツ・オパーではギーレン(!)指揮で、「運命の力」というものも見たれたのだが。9月のこんな時期にヨーロッパ行きは、定年までないような予感。
あああああ。